ふぅ、と一段落をつけて、溜息を吐く。

「よし、大体運び終わったな」
重いものを持ったせいで凝り固まった肩をぐるぐると回しながら、新しい匂いのする部屋の真ん中でそう言った。

「なぁ、ジャンさぁ、枕どこに入れたっけ?」
運んだ段ボールを早速ごそごそと漁り始めたエレンは、後ろの恋人にそう呼びかける。
「お前さっき服と一緒に入れてたじゃねぇか」
「そだっけ?」
覚えてないやと言ったエレンが、きょとんとした目を向けてジャンを見上げた。相変わらずの間抜け面だ。

俺達は、今日からここで新しく生活を始めるために引っ越してきた。
最近はどこもお洒落なデザインの所が多い。2LDK、新築アパートの3階だ。

今までそれぞれ別々に生活をしていたのだが、ずっと互いの家を行き来するだけで一緒に住むなんて考えた事もなかった。
それを聞いた悪友たちに焚き付けられて、今日に至る。
交際三年目にしてジャンがそれとなく話を切り出すと、思いがけない事にふたつ返事でエレンからそのOKを貰ったのだ。

「最早寝る準備かよ」
「重要だろ」
早くも片付ける気のないような素振りの恋人に向かって、ジャンが呆れたように苦笑する。
床に座り込んだエレンが枕を探す手を止めて、俺だってちゃんと片付けるし!と頬を膨らませた。
「どうだかなぁ」
「あ、見てろよ!超快適にしてやっからな!」
こうやって小競り合うのも、いつもの事。
ジャンが楽しそうに笑う。

「まずは自分の部屋からやってこーぜ」
と言って、自分の名前が書いてある新しい段ボールを開封していった。
「あ、あぁ…。ん?」
自分の部屋を超快適にしたところで普通の努力なのだけれど、エレンはそれに気づいてないらしい。そこら辺が扱い安くて、可愛いなぁ、とジャンは思っている。

同棲、とは言っても、お互いの空間は持つことにした。
それぞれベッドを設置して、別々の部屋をつくる。俺達は、たまに一緒に寝れたらそれで良いから。

どうせ片付けるなら自分の部屋の方が作業もはかどるだろう。リビングは後で、一緒にやればいい。
2人は時々、相手の“相手”をしながら、黙々と部屋を片付けて行く。


「よし、こんなもんかな」
お互いに負けず嫌いなので、片付け合戦の勝敗は五分と言ったところだ。
一生懸命作業に取り掛かったお陰で、2人の部屋は割と形になっている。
「こっちも大体終わったとこ」
「お、良いじゃん、じゃ、次これ動かすの手伝って」
「ん?りょーかい」
続けてリビングも手分けして片付ける。
一緒に協力して作業しているうちに、さっきの勝負の勝ち負けなんて忘れてしまっていた。
適当なところがいかにも俺達らしい。


一人暮らしの男が持ってくる荷物なんてそんなに無かったようで、そうこうするうちに1日で粗方作業は終わってしまった。
段ボールは全て開けたし、後は部屋の隅の方に少し積み上がっている小物を所定の場所に戻していくだけだろう。
今日はここまでにしようか、と区切りをつけた。

ジャンが一つ伸びをして、新しく整った部屋をぐるっと見渡す。
片付けたばかりのリビングに鎮座しているソファの上で、やっと終わったぁ、とエレンが手足をだるそうに投げ出しているのが見えた。

そうやって見渡す光景はすごく新鮮だ。
見慣れた物の中に埋もれて、自分とは違う人物の空間もそこにあるのだから。
自分の生活圏内に恋人が入り込んでくる、と言うのは少し気恥ずかしい。
けれど、ジャンはそれで満足していた。
そんなこそばゆい事もこれからたくさんあって、ずっとその時間を2人で一緒に過ごしていくんだろうと、考えるだけで嬉しくなったからだ。

「おつかれさん」
「おー、ジャンもおつかれー」
ソファで溶けている人物に声を掛ける。
弱々しく手のひらが挙がったのが見えて面白かった。
だるそうなその姿が、愛しいな、と思えて、ジャンは1人くつくつと笑う。

夏休みの宿題は最終日にやるより先に終わらせた方がいいに決まってる。
少なくともジャンはそういうタイプだ。
そこで転がっているエレンは学生の時から課題に追われる男であり、それは周知の事実だったけれど。

今回の片付けを後回しにしないでやりきってくれたのは、非常に有り難い。
そうやって少しずつ、エレンはジャンに合わせてくれているのも知っている。
やはり面倒事を先に終わらせると開放感が違って、良い。
この心地良さをちゃんと作りだしてくれるエレンとは、この先もずっと上手くやっていけそうな気がしていた。

「ひゃー、腰痛てぇ」
「おう、結構頑張って、疲れたな」
リビングのソファで唸っているエレンに、労いのお茶を差し出す。
するとそれを受け取った彼は、おおっ、と嬉しそうに笑い、さんきゅ、と可愛い顔を返してくれた。

別に今までの付き合いの中でこういう場面が無かった訳ではないのに、今はそんな何気ない事までが違う世界に見えるのだろうか。
素直に喜んでいるエレンに、不覚にも少しときめいた。
どうやら自分で思う以上に、俺はこの新しいスタートが嬉しいらしい。

「まぁ明日には、とりあえず両隣りと、上と、下にも挨拶行くか」
ジャンがエレンの横に腰を下ろしながら、明日の予定を提案する。
持ってきたお茶を、はやるような気持ちで一気に飲み干した。
ぷは、と呼吸をし、置いたグラスからはからんと氷の音が鳴る。
「朝一で、菓子折りでも買いにいく?」
エレンは受け取ったお茶を少し飲んでからテーブルに置くと、そう言ってテレビを付けた。

うん、そーだなぁ、と返してジャンは隣りの横顔をじっと見つめる。
興味が他に移ったような返事になってしまった気がしたけれど、視界は恋人を追うことに夢中になってしまっているので、そんな事まで構えない。

飽きもせずに見ていられると思っていたこの顔と、これから毎日一緒に居られるんだなと考えたら、それだけで胸が高鳴ってどうしようもなかった。

チャンネルを切り替えながらぼんやりバラエティ番組を観ていたエレンが、ふと、ジャンからの熱心な視線に気が付き、なんだよ?と怪訝な顔をしてこちらを向いた。
「え?…や、わり、何でもない」
自分でも意識してなかった行動を、指摘されると急に恥ずかしさが襲ってくる。
ただ、見蕩れていた。それだけが、理由。
「何かあるなら言え」
ジャンはエレンから慌てて目を逸らすと、別に、と答えるのがやっとだった。
可愛いから見ていたなんて、死んでも言えない。

隣りで勝手に人を観察しておきながら、理由もわからず急に照れだした恋人のせいで、エレンの目の前にはハテナが浮かんでいるらしい。
少し厚めの唇が不満そうに、への字に曲がっているのが見えた。

その大きな瞳で、全部を知りたがるようにジャンを見つめる。
エレンお得意の視線だ。どうしようも無い。
俺が少しでも動揺すれば、こちらの期待なんてまるで分かってないような顔をして、いつもじっと見つめてくるのだ。
何かを見つけた猫みたいで、可愛い。
可愛いから触りたくて、うずうずする。

俺はエレンの自覚の無いこのスキルを、誘惑のひとつだと思っている。
魅力的であり、とてもやっかいなのだ。
この瞳にはどうしても勝てないからだ。

「ホントになんでもないんだって!」
とりあえず負けじと見つめ返してみる。
「嘘じゃない?…なんか焦ってる」
エレンが不思議そうな顔をしながらこちらへにじり寄って来たかと思うと、ジャンの目の前にある、ぽったりとした唇が半開きになった。

ああもう、無意識に男を誘うんじゃねぇよ、このバカ!
そんなんだからどうにかしてしまいたくなって、我慢が出来なくなるんだ。
近付くその唇にキスをせがまれてるようで、ジャンの身体が勝手に動く。

「嘘じゃねぇよ、まぁ、なんだ…、今日からよろしく、って事だ」
そう言って自分の目の前で無防備に開くその唇を、ちゅうと啄んでみた。
割と真摯でいたい俺は、とりあえずそれ以上の欲望を抑える事に専念する。
あれだけムラムラさせられて、今ここで押し倒してしまわないだけ褒めて欲しいくらいだ。

キスをする後ろでは、付けたテレビのバラエティ番組に笑いが起こっている。
唇が軽く触れただけなのに、エレンが大きな瞳を何度か瞬かせて、ぎゃっ、と仰け反った。
失礼な反応をする奴だ。

バックでは変わらずツッコミを入れる司会者の声がBGMになっているので、こんな時のムードなんてモノは、全く無い。
これが平常運転の俺達には、雰囲気がどうかなんて些細な事だからだ。
そんなことよりも、誰としたいのかが重要なのである。

途端に頬を赤くすると、今度はエレンの方が困ったように照れた。
少し後ろに引いたのも構わず、ソファの端まで追い詰める。じっと見下ろして、戸惑うその様子を黙って見つめた。
「…っ、ジャン」
さっきまでの強い瞳が、キスひとつで顔を赤くして逸れるのがたまらない。
不意打ちされて固まったエレンはそのままジャンの下で俯くと、ぎこちなく唇を動かしていった。

頬から、耳と首まで順番に朱を乗せて一度躊躇うと、ジャンを見上げて恥ずかしそうに、こちらこそお世話になります、と小さな声で言った。

ああ、可愛い。
その表情が見れただけで満足して、胸がじんわりと暖かい気持ちになる。

「ずっと一緒に居れるって、すげーなぁ」
エレンがあんまりにも可愛いので、思わず抱き締めた。
抱き締めると、当たり前のように腕を巻き返して来て、こじんまりと収まる。
いつも思うけれど、大き過ぎず、小さ過ぎもしなくて、本当に丁度いいサイズだ。

「う、うん?そだな、あ、あれ?」
「なんだよ」
「…それって結構恥ずかしい、ぃんじゃね?」
エレンが腕の中で、顔を赤くしながら呟く。
その必死な顔が可笑しくて、今更気付いたのかよ!と、耐えられ無くなったジャンが吹き出した。
「可笑しくねぇだろ、笑うな!」
エレンが回した腕でばしばしと背中を叩く。

今回の同棲の件では、一緒に過ごす事で自分の私生活が余すとこなく公開されるのは、いくらエレンとて恥ずかしいだろうと、こちらは身構えた上で誘ったのだ。
どうやらその心配の意図には全く気づいていなかったらしい。
抜けていると言うべきか、天然と言うべきか、どちらにせよそう言う所が可愛くて、好きなのだけど。

「こっちは緊張しながら一緒に住もうって言ったのによ、お前が余裕でOKするから驚いたんだぜ?」
「や、だって…!…っ、」
「だって、なんだよ」
抱き締めたままで、ジャンが耳元にキスを落とす。エレンの身体がびくりと揺れ、背中のシャツをぎゅうっと掴んだ。

「単純に、お前と一緒に居たかったんだ」
消え入りそうな声で、エレンがそう言う。

たった一言で、身体の奥から熱くなっていくのも、どうかと思う。
爆発しそうになった気持ちを、そのままソファの背に押しつける事で抑制出来れば、真摯としては上出来だ。
出来れば、の話だけど。
もう、どれだけコイツを好きになれば良いのかわからない。
「──おい!ジャン!……んん、ッ、ふ、」
もう一度キスをした。
今度は啄むくらいじゃ止まらない。逃げる口内を弄って、歯列をなぞり、下唇を甘噛みして舐めた。
音を立てて唇を離せば、ふあ、とエレンがとろけた顔をする。

「今日は疲れてる、から、むり…!」
はぁ、と甘い吐息をついて、エレンがぎゅうっとジャンの胸に抱きつく。そんな事を言いながら、離れていかない所が可愛い。
「俺もだるくて、むりかな、」
熱を帯びた恋人の頭を撫でる。
腹の中の衝動とは正反対に、引っ越しのせいで容赦なく痛む腰を心配して2人で笑った。



「今日は一緒に寝よーぜ」
「ん、そうする…」
暫くテレビを見ながら身体をくっつけていたら、エレンがもうすでに眠たそうに欠伸をした。
洗面所まで行って、もぞもぞと着替え始める。

「明日は駅前まで行くか」
それに話し掛けながら、ジャンも着替えようと自分の部屋に向かった。
「おう、何か美味そうなやつな」
明日は住人へ挨拶用の菓子を買いに行くのに、エレンはちゃっかり自分へのお土産も考えてるらしい。
楽しそうにしてジャンの部屋に顔を出すと、持ち主より先にベッドへと滑り込んだ。

「…饅頭とかか?」
着替え終わったジャンが、エレンに尋ねる。
こういう時には何が相応しいのか全く思い付かなかったからだ。
「ばっか、若いやつだったら食わねぇだろ!」
エレンが、お前はじじいか!と吹き出して、いいから早くこい、と空けたベッドの隣りをポンポンと叩いた。
「あー、うるせぇなぁ!」
恥ずかしくなったジャンが、頬を赤くして負け惜しむ。
お祝い事には饅頭と相場が決まってるだろうに、最近の若いやつの風潮は良くわからない。

そもそも引っ越しの挨拶用なのであって、お祝い事では無かった、なんて気付くのは、ジャンが別の理由で舞い上がってるうちには到底無理な話だったのだ。
どうせじじいですよとふてくされたジャンが、空けてくれていたエレンの隣りへ乱暴に収まる。

「おじーちゃん、手ぇ繋いでー」
そうやってからかいながら、けたけた笑うエレンが布団の中で片手を差し出してくるから、
「…どおりで爺さんは孫にゃあ、勝てねぇ訳だ」
ジャンは苦笑をし、指を絡めてその手を握り返した。

これからもこんな風に、くだらなくて幸せな毎日が続いていくといい。

繋いだお互いの手のひらが気持ちいい程に暖かくて、引っ越しで疲れた身体なんてのは、すぐにまどろみの中へ落ちてしまう。


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