この辺りは夜になると少し気温が下がる。エレンの部屋は地下なので、尚更涼しくなりやすい。
ドレスシャツと立体起動装置用のベルトだけを身に付けていたリヴァイが、くしゅんと一つ鼻を鳴らした。
「寒いですか、兵長」
「あ?…あぁ」
リヴァイはソファに座って余り気にする事無く読書を続けている。熱心にページをめくるのは、その内容がお気に召したからだろう。
エレンはそんな姿を微笑ましく思うと、頬を緩ませて小さく笑った。
それから、部屋の椅子に掛けてあった自分の制服を手に取った。深いグリーンに自由の翼が映える調査兵団の制服は、マントのような形状で生地も厚めだ。洗濯したのは最近だと記憶の中で確認して、エレンはそれをリヴァイの後ろから肩に掛けてやる。
「いま毛布出しますから、とりあえずそれ羽織ってて下さい」
「………」
読書に夢中になっていたリヴァイがぽかんと口を開けて、視線を本から後ろに立っているエレンへと移した。
目が合ったのでにこりと笑うと、ああ、といつも通りの素っ気ない返事が返ってくる。リヴァイは暫し無言でエレンを見つめた後、再び本へと視線を落とした。
「少し待ってて下さいね」
返事は期待せぬまま声を掛けてみたけれど、やはり下げた視線は動かない。エレンにとってはこれがいつも通りのやり取りなので、反応が無い事にもすっかり慣れてしまった。
確かクローゼットに来客用の毛布があったはずだったな。それを思い出し、エレンは足早にクローゼットへ向かう。
どうも自分は好きな人を甘やかしたくなる性分だったらしく、それには恋人という存在が出来てから初めて気が付いた。
甲斐甲斐しく世話をしようと、リヴァイが黙って自分を傍に置いてくれるのがいい。
今では付き合い始めよりもずっと、リヴァイに尽くせる事を嬉しく思っていた。
普段から弱音を吐かず、兵長という立場上誰かに頼ることを知らない彼をずっと近くでみているからかもしれない。
お茶を入れたり毛布を持っていったり、そんな彼に、尽くす事が許されている自分を思うと特別になれたようで満たされた。
自分がリヴァイよりもずっと年下で、彼にとってまだまだ頼れない子供だという事はしっかり自覚している。
けれど、エレンはそれと同時に年の差を気にせず、この関係を大切にしようとも思っていた。
せめて彼が恋人だけには甘えられるようにと願って、背伸びしてしまう程に好きだと感じているから。
「兵長、キレイな毛布ありましたよ」
クローゼットから探し当てた毛布を手にして、エレンはすぐにリヴァイの座るソファへ向かう。
気付いたリヴァイが顔を上げると、その端正な眉がぴくりと動いた。
エレンが毛布を用意したのは、少しの気遣いからだ。好意を持っているのだから、当たり前のことだろう。
けれど彼はいつもとは違い、そんな恋人を目の前にして眉間に数本の皺を刻んだようだった。
「お前は本当に、忠犬だな」
リヴァイが呆れたように溜め息をつく。
エレンの中ではそんな反応すらも予想外だったので、少し怯んだ。
「あの、…気に入らなかったですか?」
恐る恐る問い掛ける。リヴァイがいくら表情豊かではないとは言っても、こうすれば喜んでくれるものだと思っていた分、落胆の色を隠せない。
そんなエレンに向かって、そうは言っていない、と瞳をそらさない彼はあっさり答えた。
「はい…」
うなだれるように肩を落とすと、エレンはゆっくり睫毛を伏せるようにして俯いた。迷惑だったのだろうか。そう思い、すみませんと続けて呟く。
「おい、勘違いするな。責めてる訳じゃねぇ」
また一つ溜め息をついたリヴァイが、読んでいたページに栞を挟んだ。それから二人掛けソファの空いている左側を指差して、そこに座れ、と言う。
エレンは、はい、とすぐに返事をし、緊張しながらその空いた左隣りに腰を下ろした。持ってきた毛布はソファの肘掛けに邪魔にならないようにして置く。
リヴァイは隣りに座ったエレンにちらと視線だけを向けて確認すると、何か言いたそうに目線を泳がせ、また正面に向き直った。
「兵長、言いたい事があったら言って下さい…」
正直あまり聞きたくはないけれど、不満は今後の為にもやはり聞いておきたい。黙っていられるよりはずっとマシだからだ。
エレンがおずおずとそう切り出すと、リヴァイが言いにくそうに躊躇い、少し考える素振りをしてから口を動かした。
「…毛布はありがたいが、必要ない」
「そうですか」
「俺は、お前のこの汚ねぇ制服一つで充分だからな」
え?とエレンが驚いて、そう言い放ったリヴァイを目で追いかける。
見上げた彼は、足を組み替えながらエレンの制服を肩に深くかけ直すと、こちらに背を向けるようにして座り直した。
躊躇ったのは、どうして。
「なぁエレンよ、一週間洗濯してねぇとか言ったら削ぐぞ」
「わー!ち、ちゃんと洗ってますよ!」
疑われてちょっと焦ったエレンが反論する。だけど洗濯したのは一昨日くらいだ。もしかしてヘンな匂いでもしようものなら、それは恥ずかしいなんてもんじゃない。
リヴァイが何を考えてるのか分からないが、こうなったら削がれる前に、意地でも返して貰わなくては。
そう意気込んで、エレンが自分の制服を掴みかける、その時だった。
「…お前の匂いがするほうがいいに決まってるだろうが」
背中を向けたままのリヴァイがそう、ぽつりと言った。
「──っ、え…?」
制服を掴んだエレンの手が止まる。次に、後ろ向きのリヴァイの耳元が、微かに朱を刷いているのが目に入った。
エレンは真っ先に、自分の耳を疑う。彼が今、柄にも無い事を言ったからだ。
もしかして、さっきの躊躇いも、そう言いだすのを照れていたから?
それが本当なら、ものすごく嬉しい。
でもまさか。
あまり聞きなれない台詞に、エレンは混乱した頭を懸命に整理する。
「兵長、今なんて」
「…聞いてねぇのかよ」
リヴァイが更に首まで赤くして、ち、と舌打ちをした。その反応が、エレンに確信を押し付ける。
自分だって彼の匂いで安心したりするから、そういった類の気持ちは良くわかる。
しかし、そんなのは自分が子供だからと思っていた。
まさかこの男に限って、自分と同じように、想ってくれているなんて。
そう気づけば、嬉しさとは別に何とも言えない気恥ずかしさが、一緒になってエレンの腹の奥から込み上げてきた。
目の前の背中は、握り締めたエレンの制服を離す気配はない。
「兵長…っ、それは尚更恥ずかしいですから、やっぱり制服、返してくださいよ…っ!」
「聞いてたんじゃねぇか!」
恥ずかしくなったエレンが思わず、そのまま掴んだ裾を引っ張った。
急な力で後ろへ引き寄せられたリヴァイが、ぐらりとバランスを崩す。
「わ…っ!」
「おい!」
驚いたリヴァイが、離せ馬鹿…!と叫ぶ。
…頃にはもう遅かったようだ。小柄な彼はそのまま重力に従って、エレンの腕の中へとすっぽり収まった。
「………」
「………あ」
リヴァイの額が良く見えて、膝の上から真っ直ぐな瞳がこちらを見つめる。案の定、その眉間には数本の皺が入っていた。
マズイ、といった顔をしたエレンの頬がみるみる赤く染まっていく。この動揺は、反省なのか照れなのか、自分でも良くわからない。
後ろにひっくり返って反転した世界に、そんなエレンの姿を捉えたリヴァイは、その瞳を何度か瞬かせていた。
加減もせずに勢い任せに引っ張ってしまったので、大丈夫ですか、と慌てて膝の上のリヴァイに安否を問う。
「これが大丈夫に見えるか」
「いや、あの、大丈夫じゃないんですか?ごめんなさい!」
「ひっくり返ったくらいでどうにかなるほど、俺はヤワじゃねぇ。冗談だろ」
冗談?!とエレンが繰り返す。そんな冗談の通じなさそうな無表情で、冗談、などと言われても俄かには信じがたい。
リヴァイの優しさが怖いときもあるのだ。これからどんなお叱りが待っているのかとエレンがそわそわ落ち着かないでいれば、
「…面白れぇ面すんじゃねぇよ、クソガキ」
そう聞こえてきた声と共に、小さく、は、と膝の上から笑い声が漏れてきた。エレンの心配をよそに、持っていた本で顔を隠しながらくつくつと聞いた事の無い密かな声が聞こえてくる。
「兵長…?」
てっきり怒られるかと思っていたのに、自分の膝の上でリヴァイが笑っている。なにがツボだったのか、こんなに笑っている彼を見るのは初めてだった。
一呼吸おいて、どうしよう、とエレンの方が慌てた。
「っ、ごめんなさい!本当に首とか、大丈夫ですか?!」
「あぁ、痛てぇな」
げ、とエレンが言う。お前のせいだろクソガキ、と声がして、逆さまのリヴァイがいつも通りの鋭い瞳を本の隙間から覗かせた。
「…丁度良い、これで勘弁してやるから大人しくしてろ」
幾らか笑い終えて真顔に戻ったリヴァイが、栞を挟んでいたページを開く。エレンの膝に頭をのせたまま、当たり前のようにそこで続きを読み始めた。
「え!?もしかしてこのままなんですか!?」
「それ以外になにがある」
触れ合ってるだけでも思いがけない収穫なのに、さらに思いがけない事に膝枕なんて夢のような時間が始まった。
一緒に居るようになってから暫く経つが、笑う彼も、膝枕も、やっぱりどれも初めて経験する事だ。
エレンはそれが嬉しい反面、戸惑いを隠せない。
耐え切れず、へいちょー…と情けない声を出した。
リヴァイはそんなエレンのささやかな抵抗にも全く反応することなく、黙々と膝の上で活字を追い続けている。
「い、息が、止まりそうです…」
少しでも揺れたら怒られるだろうか。緊張で自然と身体が硬くなれば、呼吸の仕方さえ忘れそうになるんだなと、エレンはそう頭の隅でぼんやりと思った。
「…うるせぇぞ、エレン」
いつまでも後ろであわあわとしているのが伝わったのか、リヴァイが文句をつける。
エレンはびくっと身体を揺らして、ごめんなさい、と言った。
「何回謝るんだ。別に責めてねぇ」
「…は、はい…」
「お前はガキだからな、理由が欲しいならくれてやるが」
そう言うリヴァイは活字から目を離さない。今こうしている理由とは何だろうか、エレンは膝の上の長い睫毛を見つめながら少し考えてみる。
リヴァイがエレンを子ども扱いするときは、甘やかそうとしてくれている合図だ。だからここは、教えて下さい兵長、と素直に聞いた。
エレンはリヴァイとこうして隣りにいるだけで身体が熱くなるし、どこかが触れていると更に愛しい気持ちが湧き出してくる。くっついていたい理由なんて、それで充分だった。
相変わらず本から目を離さないままのリヴァイは、全身を赤くさせているエレンに言い聞かせるようにすると、いつもと変わらない低声でそれを囁いた。
「はい…っ、って、えぇ!?」
エレンが変な声を出す。それから頬を真っ赤にさせて固まった。
「余計にうるせぇな」
眉間に皺を寄せて、ち、と舌打ちをした後もリヴァイは黙々と読書に集中している。動じてないように見せた彼の、その頬がうっすらと赤く染まっているのが見えてエレンは尚更目の前がちかちかした。
「は、はいっ、すみません…」
とりあえず謝ってしまうくらい衝撃的で、思っても見なかった言葉だったのだ。
「少しぐらい、俺にも甘えさせろ」
今本当に彼はそう言ったのか。信じられなくて咄嗟に自分の手の甲をつねるが、摘ままれた甲は当たり前に痛かった。
なんだ、今のこの状況は彼が甘えてくれている最中だったのか。恋人同士なら当たり前の事で、それなら全く問題はない光景だ。
静かな地下の部屋で、エレンのうるさい心臓の音と、リヴァイがページを捲る音だけが聞こえる。
頭の中を整理し始めて、ようやく驚きと緊張が過ぎ去ると、次はエレンの中に嬉しさの波が押し寄せてきた。
どうしよう、うれしい。ふふ、とこっそり笑う。読書に夢中で見上げられる心配がないのを良いことに、エレンの頬は終始ニヤニヤと緩みっぱなしになった。
何だか知らないうちに、いつかはリヴァイに甘えてもらうという作戦が成功したのだと、エレンは心の中でガッツポーズを決める。
いつもは傍若無人でサディスティックな彼も、本当は可愛い一面を持っているのだ。それを知っているのが、俺だけの特別。
膝の上の気まぐれな彼を見つめながら、そう思う。一緒の時間を過ごせば過ごすほど、エレンは心から満たされた気持ちになって、幸せだなぁと笑った。
あれからどれくらい時間が経ったのだろうか。
幸せいっぱいの気分で最後まで読書が終わるのを待ってしまったエレンの足がとうとう限界を迎えた。
痺れてしばらく悶絶している所を、起き上がったリヴァイが隣りで観察している。
「き、気にしないで下さい…」
「そりゃご苦労だったな」
リヴァイはそんなエレンを見て鼻で笑うと、新しいオモチャを見つけたように怪しげな笑みを浮かべた。
「兵長…?」
ニヤリと口角が上がるのが目に入った気がした。
がつん、とリヴァイのブーツがエレンの膝下にクリーンヒットする。
「───ッッ!!?」
基地の地下に、不憫な少年の、声にならない悲鳴が響いた。
何故そんな事をしたのか理由を聞けば、彼曰わく、小鹿のようで面白かったから。
きっと、ひっくり返した仕返しが2割、照れ隠しが8割なんだろう。予想がつくくらいには、もう深い関係なのだ。
そうやって必ず、飴の後には鞭を振るう彼を、知ってて愛してしまっているんだから仕方がない。
背中を向けてずっと肩を震わせてる恋人を恨めしげに見ては、涙目でその愛情とやらを少し疑うことにしたエレンなのであった。
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